劇評

​馬鹿じゃない。ー開幕ペナントレースについてー

馬鹿・佐々木治己(TAGTAS)

馬鹿じゃない。ー開幕ペナントレースについてー

馬鹿じゃない。開幕ペナントレース(以下、開ペ)を初めて見たときに思ったことだ。「馬鹿じゃない」というのは、「馬鹿だよね」というようにも、「馬鹿ではない」というようにもとれる響きを持っているが、開ペはまさに馬鹿であることを自覚的に行い、ちょっと物事を斜めからも見ていることを示すことで、馬鹿ではないことを、やる側も見る側も享受するといった腐りきった関係を結ぶ舞台を行っている。私は客席で腹が立った。彼らが「お馬鹿なこと」を真剣にやればやるほど、観客席ではクスクス笑いや、ニヤニヤした顔が瀰漫している。出来レース、八百長、裏取引、インテリジェンス、ガス抜き、内輪ネタ、お洒落、八百長、まあ何でもいいが、そういったイカサマ感がありありとしていたのだ。こんなイカサマ感を馬鹿の見本みたいにされるのは、馬鹿代表としては全く納得がいかない。馬鹿ってのは、誰からも理解されず、孤高、まさに、何が何だか分からない、ある種の価値判断から逸脱した、そういった、か弱いながらも図太い、KYの神様のような者が馬鹿であり、こんな人の顔色を窺ったような小器用な者は馬鹿の風上にも風下にもおけない。馬鹿の範疇にいない。だから、私は、「馬鹿じゃない!」と罵倒するかのように、上演終了後、村井雄さん(以下、村井雄)に言ったのである。そして、「もはやインテリだ」と。ここで言いたいことがある。小劇場なんていうチンケな場所は、サブカルだかなんだか知らないが、権威的なカルチャーに対抗して、ある種の文化、歴史、知性などと対峙することで生まれてきたものだ。村井雄には釈迦に説法、いや、馬の耳に念仏だろうが、このように育まれてきたサブカルとしての小劇場運動なるものは、デパート文化に回収され、お気楽、お手軽に、自分を表現する、または、誰も知らないけど、自分だけ消費してる的な消費者根性に飲み込まれ、小劇場なんてのは、ただの趣味、数多ある趣味闘争に負けた者が集うゴミ置き場のようになっているわけだ。そこに、またゴミを再生産するように開ペが出てきて、このままゴミはゴミとなるのかと思いきや、何故かしぶとく活動を続け、その裏には、何故か古典戯曲で遊ぶという一ひねりがあったからんだろうが、不当な評価を得ているのである。何が面白いのかさっぱり分かる。全部手に取るように分かる。簡単だ。開ペを面白いというのは簡単だ。簡単過ぎないか?


その簡単さに嫌気が来ないか? 言うよ、言っちゃうよ。クドカン、鈴木オサムってうんざりしないか?
純朴か純粋か知らないけど、ちょっと抜けた人が出てきてさ、最終的には人間は心だよねってなってるのは開ペよりも不特定多数のへんな満足を狙わなきゃならないからなんだろうけど、開ペにはそれがないってだけで、基本は似た様な遊びをしてるじゃないか。どこかでみた、それも苦労せずに、ただダラダラと漫然とその辺のものを同時代的に消費してきた人たちには分かるものをネタにパロディ、おちゃらかし、そんなじゃないか。世代、地域的な内輪ウケ。まあ、それもいいさ。多かれ少なかれ内輪ウケは仕方ない。これは、マーケティングされているんですよ、我々観客は何も見ちゃいなくて、一場のあるあるで満足することがデータとして村井雄にはあるんです。分かる分かるで気持ちよくなって「いいね!」「いいね!」って押すんですよ、この野郎。書いててだんだん腹が立ってきた。私と村井雄との関係を書こう。もう少し落ちつくだろう。落ち着け。村井雄との出会いは感動的だった。初めて会ったとき、「あれ、太った?」と村井雄から言われたのだ。挨拶もなく、いや、これが挨拶だったし、これが村井雄の作戦だ。まるで、手馴れた営業マンか、あの、なんつったけ、あの恥ずかしい人、あ、いとうせいこうがやってた業界くんだ。私も村井雄に「うん、太ったよ」と答えながら、嫌いじゃなかった。いや、この場は嘘を付く場所でもない、正直に書けば、好きだった。で、その後、村井雄の実家に泊まった。これが私と村井雄との関係だ。お持ち帰りされたわけです。その後数日、村井雄との楽しいひとときを過ごし、「今度、舞台見に来てくださいね〜」とか抜かすから、見に行ったら、ガッカリだった。「馬鹿じゃない」と、こうなるわけだ。しかし、村井雄に初めてあったときから、村井雄が馬鹿だなどと思ったことは一度もない。どちらかと言うと、演劇界のちょいと評価された人には珍しい、よく気の付く、良い人という印象だった。しかし、舞台では、「お馬鹿」をやっている。これなんだ。逃げか。人間が好きってことと、その場を誤魔化すことを勘違いしちゃいないか。我は剣を投ずるために来たれりって精神を冒瀆している。開ペで展開される消費しやすい、受け止め安いお馬鹿を私は拒絶する。こんなモノをよろこんで消費しているものは、日々安穏と糞みたいにダラダラと暮らしている奴等に違いない。または、日々スナイパーに狙われ、電話は盗聴され、SPに囲まれた生活を妄想している奴に違いない。くだらないということが約束されたくだらなさに何がある。価値どうこうというと、価値がないのが素晴らしいとか言っちゃうめでたいのがいるだろうから言わない、書いてしまったが。あと、もう一つ言いたい。開ペのような消費しやすいお馬鹿を、面白いとか言うのはね、なし。分かりきっているじゃないの。よくある若者文化的雰囲気に乗っかっちゃうおじさん、気持ちは若いってことでOK?それでいいか?


まあ、しかし、このような出来レース、イカサマ、八百長、出来レースなお馬鹿は、どこでやるかで面白味が変わってくる。震災直後に渦中でやって罵詈雑言でも浴び、それに対して真剣に議論するくらいのことやらないと馬鹿じゃない。なんだっけ、ほら、美術家の陰茎みたいな集団があったけど、なんで彼、彼女らは、悪ふざけをしたあと、論陣を張らないんだろうな。それしなかったら、ただの消費文化に乗っかりたいのってやつでしょ。言表行為なめんな。まあ、黙ってれば、「いいね!」「いいね!」みたいなのが寄ってたかって支持するから、それで良しか。かぁー、いやだね。表現の自由は、ただあるだけで表現の自由になるのではない。自由とは常に、何何からの自由だ、って言われても困るだろうけど、ただ消費するだけが自由だと思ってるから、いつでも知らなかった、欺されてたってほざくことになるんだよ。また繰り返すのか。好きだなサビ*が。なんだか話がいつの間にかズレてしまい、書き始めのお堅さを忘れつつあるけれども、開ペの分かり易いお馬鹿は村井雄の罠だ。そうやって、ニヤニヤするために、幾ばくかの銭を払うくらいなら、部屋で裸になって、ぶらぶらして、お尻の間にパソコンを挟んだあたりで冷め、パンツを履きかけたあたりで「わて、なにしてはるんやろ」と虚空に呟く方がよっぽどましだ。用意されたお馬鹿に乗るような奴は、馬鹿に謝れ。謝って、フェイスブックとか、ツイッターとか、ミクシーはもういいか、まあ、そういったもの全部に、「あるある、分かる分かる、好きですみません。人の話はろくに聞いてません。すぐにウケる〜とか言ってるけど、別にウケてません。」って書くことを反省文の代わりにします。そして、今後、開ペの舞台を見に行くときは、ちゃんとブーイングしろ。そんな分かりきったお馬鹿してないで、もっと意味不明な、なんだか分からない、馬鹿になれ!って。


馬鹿・佐々木治己(TAGTAS)

2013/05/15

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