劇評

 開幕ペナントレース(以下開ペ)に、馬鹿じゃないところがイマイチだ、もっと馬鹿になれ、と書いて後悔していた。「もっと馬鹿になれ」と言われても困るだけだ。これでは職場にいるパワハラ上司や半可通の演劇ファンと同じじゃないか。それと、くだけた口調で書いてしまったことも反省した。お堅い感じで、就中(なかんずく)や、豈図(あにはか)らんやなどの立派そうな言葉を使い、お堅さの塊のようにして、笑っていいのか分からないが、なぜだかニヤニヤしてしまうという境地を開ペの諸君や見物衆の皆さんに示すことをせずに、サービスしすぎだと開ぺを批判をしながら「ハイ!笑って!」と私もサービスしてしまった。これでは村井雄(以下村井雄)に合わす顔がないと思い、「また何か書いてくださいよー」と半笑いで言ってくる村井雄から逃げていた。自分が恥ずかしかった。しかし、恥ずかしがったまま書かずにいるのも自意識過剰のようで恥ずかしい。村井雄に応答しよう!と、開ぺの諸君や見物衆に「もっと馬鹿である」ことの見本を示すことができなかった言い訳を考えた。これは私のせいなのか? それとも開ぺのせいなのか? 私と開ぺの何がいけないのか。プーシキンが『大尉の娘』で断言するように、「詩人には読む人が必要だ」ということに尽きる。演劇であれば応答する者の存在が必要なのだ。開ぺや私が一笑されるだけの罰ゲームプレイヤーのようになっていることが問題なのではないか。であれば、この罰ゲームのような、罠のような状況はなぜ起こったのかと分析することで、開ペと私を囲繞する時代閉塞の現状を知ることになるのではないか(なかなかお堅そうだ)。結論。どうせ分からないから道化にでもなるか。

 村井雄と現在の演劇シーンについて話したことがある。復興や反原発、反ヘイトでもなんでもいいが、これらの社会的意義がありそうなことを前面に出す演劇が支持され、雨後の筍のように社会的なメッセージを持った演劇が増えている。このような演劇界の現状を、村井雄は◯◯特需と命名した。社会と演劇という結構なお題目は、3.11以降という言葉とともに鳴り物入りで大手を振って現れた。私のような天邪鬼は、そういった結構なお題目を掲げて大手を振れる正しさに苛立ちを感じてならないし、村井雄は村井雄で、すでに正否を決めた者たちが同じような意見を抱いている人たちの前で演劇をすることに違和感を感じているようだった。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、戦没者追悼演説について聞かれたとき「アテナイ人の前でアテナイ人を褒めるのは容易だ」と言った(とプラトンが書いているのは言うまでもない)ように、劇場もSNSも同様の状態になっているように思えることは少なくない。短絡に言えば、同じような主義主張を持つ者たち専用の社会と演劇なのである。そう短絡に考えるな、重要なことなのだ、命が、生活がかかっているのだ!という苛立ちや異論を机を叩いて叫ぶ前に、村井雄の仕事について考えてみようじゃないか。(ここで「『喜びの琴』事件」について触れたいが、お堅さにも限度があるという都合によって割愛いたします)

 昨年(2016年2月)、開ペは「ロミオ&トイレット」という作品を再演した。トイレットはもちろんジュリエットのダジャレだ。しかも笑えないダジャレだ。小学校3年生でギリギリだ。また、小学校3年生は『ロミオとジュリエット』をあまり知らないだろうから、もはや、どこにも笑わせる対象がいないと言ってもいい(私はタイトルだけで笑ってしまったことを告白しよう)。舞台上はトイレットペーパーを縦置きにして構成されている。この舞台装置は圧巻というよりも、面倒くさそうに思えるだけだった(奥側に設置されている天井に届きそうなくらい積み上げられたトイレットペーパーの中程に不自然な断層を発見したとき、いつここが割れて大量のトイレットペーパーが落ちてくるのかと期待していたが、そんな場面はなかった)。上演は開ペを一二度見ただけのものにすら既視感を与えるというより、またかと目を手で覆いたくなるような同じネタが使用されている。この上演が舞台装置以外で「ロミオ&トイレット」(以下ロミ便)だと分かるのは、『ロミオとジュリエット』(以下ロミジュリ)のセリフを使用するというところである。しかし、驚くのは、その数少ない象徴的なロミジュリのセリフであるにも関わらず、俳優たちがおしゃぶりを咥えながら発語するため、妨害されているのである。何を言っているのか分からない。ふがふがと言っている。例えば、「ああ、ロミオ、あなたはなぜロミオなの?」というセリフがロミジュリにはあったと記憶しているが(生憎、手元にロミジュリが見当たらないためそのようなセリフが存在するのか参照することができないが、賢明なる読者諸兄であればご存知であろう)、ロミ便では「ふが、ふひほ、ふがふがふひひひふひほふが?」のようになっているのである。村井雄の演出で特徴的なのはこれではないだろうか。多くの人が分かっていることは妨害する。そのことにより分かっている見物衆は分かっていることが妨害されたことに笑みを浮かべるという図式は残念ながら成り立つだろう。しかしここまでの意図であればなんら問題ではない。この妨害がもたらすのは訳知り顔の笑みではない。同じように聞こえるかもしれないが、このような行為が示しているのは、見物衆にとって当然と思っていることが妨害されているということのみである。笑みを求めているのではない。「笑うほど当然なことですか?」と、「当然さ」「分かる」ということが挑発されているのである。ではなぜ、開ペで繰り返し行われる同じネタは、妨害されないのか? この繰り返し行われるネタ、つまり開ぺを一度でも見たものにとって「当然」なネタこそ、そもそも意味や意図が「分からない」と思われるために、繰り返されているのだ。この開ペのネタを笑うのは意味や意図が分かって笑うのではない、意味不明だが何度も、全く別の上演でも繰り返し行われるために、笑う。笑うしかないから笑う。「分かる」から笑っているのでない。私たちは開ぺの上演を何も分からないのに笑っているのだ。

 しかし、開ペとしても「分からない」だけでは見物衆を集めることはできない。どこかに同好の士を求めている部分もある。ロミ便で言えば、「好きなあの子のトイレをしている姿が見たい」というものになるが、これこそ、同好の士を集め難くする趣向なのだ(ロミ便が気になって仕方ないのは、偶然にもその趣向において、私は同好の士なのである。私の話で恐縮だが、振り返ること19年前、佳人が後にした厠の匂いを嗅ぐという意味の言葉を作ったことがある。「すめらぐ」という言葉だ。これは、「皇(すめら)」と「嗅ぐ」を合わせた言葉であり、「あの子がひた隠しにする残り香を嗅いでみませう」という一視同仁のバリエーションとして、一嗅同臭<嗅いで見れば同じように臭い>というお気持ちなのである。そして、この同好の士にはなかなか会うことができない。多くの人が嫌がるような視点であることは、この19年でいやというほど味わった。スカトロジー的なものは、臭いものに蓋の例えではないが、人に嫌悪をもたらすのだ)。この趣向が嫌悪を感じさせることは百も承知の村井雄が、「ロミオ&ふがふっが」にしなかったのは、「私はこういったものであるが、諸君はその私を排斥するだろう」という宣言にも思える。ジュリエットのトイレット。これだけで馬鹿だと思われる。「お前は何を言っているのだ?」と厳しい目で睨まれるのだ。なぜ、そのように多くの人が賛同しないことをテーマとして取り上げるのか。多くの人が賛同する社会的テーマを取り上げることはせずに、怪訝な顔をされるようなものをテーマとするのだろうか。

 開ペの作品の多くは、茶番である。そしてその茶番は、禁じられた茶番である。幼稚、低劣、低俗などの罵声を浴びせられてしかるべき茶番であり、大手を振って歩ける代物ではない。では、なぜ、やるのか。そこを考えなければならない。村井雄ととあるシンポジウムで、ポリティカル・コネクトネス(以下PC)について話をした。演劇や言説でも構わないが公にするものに関して、政治的に適切な表現をしなければならないと言われているものであり、分かりやすく言うと差別的な言葉は使ってはならないというようなものがある。PCは訳語として「政治的正しさ」というのが当てられているが、誤訳かどうかはさておき、この「正しい」に依拠した表現がなされなければ批判されるのである。人種差別や少数者への配慮として考えられた運動であると私は理解しているが、PCへの意識が広まり、前提となってくると、PC的な価値観を前提として受け入れた者にのみ表現の世界は開かれ、そうでないものは野蛮や幼稚のレッテルを貼られる。そして、これは私の皮肉な視点だが、PCが前提化し、ドヤ顔で野蛮と叫ぶ人の顔を見るたびに、誤訳とも言われる訳語の政治的<正しさ>が適切に思えてくる。私たちは<正しさ>を演劇に求めていたのか? 繰り返しになるが、社会運動としてのPCは賛同もし、理解もしよう。社会運動に連動し、追随し、意思表明するのもいいだろう。しかし、すでに前提化した意識に対して異を唱えるのも芸術や演劇の役割なのではないだろうか。開ぺとはそういう存在なのではないだろうか。分かりやすい社会的なテーマ、市民的視点に則った、人権や法に則った、リベラルで、良識的な、進歩的な視点、知識人や芸術家たちが諸手をあげて賛同してしまうようなものを、批判する。「決まっちゃってるんじゃないの?」と。その際、批判のやり方が重要となる。人々を不快にさせるものではなく、なぜだかニヤニヤさせてしまうやり方、つまり、茶番というやり方を選択しているのが、開ペなのではないだろうか。おちゃらかしなのである。正しい感じの世界で、社会と演劇というお題目を掲げて、国民運動のようになっていく演劇に対して、開ペは、トイレット一つで禁じられた茶番へと向かっている。「好きなあの子のトイレをしている姿が見たい」、このマジックワードで、怪訝な顔を集めては喜んでいる。

 もうそろそろ書き終えたいと思っているのだが、もう二、三書きたいことがある。多くの演劇人が何事かと思っているおフランスのおアヴィニョンに開ペが行くと聞いた。開ペがおアヴィニョンに行くということが何事か!お前らお演劇しないじゃないか!と訝しむ声もあるかもしれないが、開ペは、お芸術、お演劇を茶化すためにお本拠地に乗り込んだんだと思った。そして案の定、サルトル『出口なし』を茶化したらしい。サルトルを茶化す。ああ、私もサルトル的なものを茶化したい。アンガージュマンを茶化したい、ヒューマニズム的なものを茶化したい! おフランスでは「お前らサルトルだと分かって茶化しているのがシュペーハ(やべーぜ)」と言われたらしい。しかし、日本で再演したときには、サルトルって知らないし、という声もあり、開ペの茶化しも効果半減であったことを考えれば、そこは村井雄が日本演劇界を買いかぶりすぎたというだけなのかもしれない。この日本での空転ぶりを村井雄はどう思っているのだろうか。PCすらなかなか根付かない日本でPC批判をしたところで空転するだけだと賢しらに言われることなんて、なんとも思ってないのかもしれない。変わり者、変な奴と言われることを受け入れているように見えるところもある。道化はいつでもそうだ。どうせ分からないなら道化になるか。

 もうそろそろトイレから出たいと思うので、適当に締めると、開ペと村井雄が道化に見えれば見えるほど、私は自分が何かを排除しよう、見ないようにしようとしていることに気づかされるような、そんな気がするのである。あと、二つほど書きたいことがあったけれども、それはまた次回。

佐々木治己(劇作家)

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